ひぐぶろぐ

樋口しゅうじは日記を書いたり書評を書いたりします。

お酒をやめた話

こんばんは、樋口しゅうじです。

 

もうかれこれ3年近くお酒を飲んでいません。

 

1滴も。なんだったら、チョコとかにお酒が入っている場合は、

吐き出してすらいます。

 

コンビニとかでお酒の前を通っても何も思いません。

もはや、ビールの味も思い出せないくらいです。

 

でも、どうしてもツライとき、一時的に気分を紛らわせるために、

飲んでしまいたい時があります。

 

それは、味がどうとか、人生の潤滑油だとか、そんな話では

全然なく、ただ脳を麻痺させてしまいたいだけなのだと思います。

 

いつの頃からか、「お酒を飲んでも現実は変わらないから、

抱えている問題や不満の解決が遅くなるだけだ」と感じるように

なりました。

 

でも、見方によっては、そんなことを言っていられるうちは

まだまだ序の口なのかもしれません。

 

あるいは、耐えようとか、克服しようとか、そういうある種の

マッチョな超人主義的思考を続ける限り、肝心のところは

解決されないのかもしれません。

 

耐えることで、状況が変わることを受動的に待っているならば、

それはなんらかのトライを生まないわけで。お酒に逃げようが、

「忍耐」に逃げようが、本質的には同じなのかもしれませんね。

 

もしそうだとするならば、そのマッチョな思考を脱却した時、

やはりお酒を飲む必要は無くなっているのだと思います。

 

結局のところ、いずれにせよお酒を飲む必要はない状態が

僕にとっては望ましい、ということになりそうです。

 

より正確にいうならば、少なくともお酒で紛らわせてしまうのは、

解決を遠ざけていることになる、ということでしょうか。

 

お酒との適度な距離を保てる人には、なんの関係もない話でした。

 

今日はこのへんで。

 

 

 

 

 

調布飛行場って案外いいですよの話

こんばんは、樋口しゅうじです。

 

東京にいると、広い空ってなかなか見れないので、だだっ広いというだけで心がすっとします。

 

ここ何年か、調布飛行場に時折行くようにしています。空が広い。飛行機には今のところそこまで興味がないのですが、セスナ機はやんちゃでかわいいような気もします。マニアの方には「わかってない」と怒られるかもしれませんが笑

 

前に月食を見に、調布飛行場へ行きました。近所の人と思しき人たちがすでに敷物を敷いて、宴を奥ゆかしく行いながら、時折月を見て変化を楽しんでいたのを覚えています。ああいうの、なんかいいですね。

 

僕自身は田舎育ちですが、田舎だって必ずしも空が広いところばっかりじゃありません。以外と山やらなんやらで囲まれてたりもします。

 

とはいえ、それはそれで滋味深いものでもあります。遠野物語で有名な岩手県遠野市に行った時は、四方を山に囲まれた独特の閉塞感がありました。決して息苦しいわけではなく、なんだかかまくらの中にでもいるような、空に見えない覆いでもしているような、そんな感じです。旅行好きではないけれど、すっかり気に入ってしまいました。

 

今日はこのへんで。

 

毎日賃貸サイトを見てしまう話

こんばんは、樋口しゅうじです。

 

僕は引っ越し好きで、これまで何度も転居してきました。新しい生活環境は、それだけで気分が高揚します。

 

それと、やっぱり防音性と家賃のバランスに対する飽くなき追求(笑)。

 

もう、本当にうるさいのイヤです。これまで上階に彫刻師が住んでいたり、ドラマーが住んでいたり、正体不明の奇声(「オッ!」「ヘッ!」など)を毎晩発する男性がいたり・・・経験上、隣室より上階の方が悩みのタネになってきました。

 

しかも、だいたいみんな夜中に活発に活動するんですよね。トンカチの音とか、ドラムスティックで床をカチカチ叩く音とか、正体不明の奇声とか・・・。

 

管理会社に相談しても、結局いたちごっこになるのが大体のパターンです。集合住宅における騒音って、現行犯逮捕的に音を発生させている現場を押さえられないじゃないですか。「コラー、そこでなにやっとんじゃー」みたいに。まあ、そういう荒事自体苦手なんですが・・・。

 

どんなに疑わしくても、しらばっくれられたらそれ以上の追求って無駄になります。って言っても、繰り返し追求することで自制を促すしかないので、諦めるわけにもいかないのが、本当に哀しいところ。

 

なので、安心して生活できる静かな環境(で、家賃も安い)を探し続けています。

 

やっぱり鉄筋コンクリート(RC)で、「壁式」(建物の重さを壁全体で支える構造。隣室との境界に当たる「界壁」も厚くなるので、防音性に優れる傾向にある)だと思います。賃貸サイトを見ていて、RCマンションで梁のないお部屋の写真とか見ると、それだけでテンションが少し上がります。まあ、そういうとこって建築費用がかかってるので必然的に家賃も高めになりがちですが・・・。ともかく内見に行って壁の具合をチェックはマストです。ちなみに、築年数はいつも無視しています。機能性重視。むしろ、めちゃめちゃレトロだとなんかカワイイですよね。

 

最近は、鉄骨でも最上階ワンフロアのみとか、そういう物件も視野に入れています。でも、床(スラブ)って鉄骨マンションの場合どうなんでしょうね。お金かけて厚めのスラブを意図的に採用する場合も稀にあるみたいですけど、そういうのってコスト高だから家賃に跳ね返って・・・ってパターンですかね。

 

毎日賃貸サイト見てると誰でも相場観つくと思いますから、投資用マンションの売買価格とか見て、なんとなく「お、この家賃設定だと10年で回収しきれないなー。築年数から考えて、あんまり旨味なさそうだなー」とか考える材料になります。想定家賃を高めに設定してある場合には当然注意が必要ですよね。そんな時、自分自身の相場観が頼りなんだと思います。

 

まあ、貧者ですから、買ったりしないですけど。

 

賃貸サイト見て、エリアと間取りと構造・築年数から、大体の家賃を言い当てられるようになると、まずは一歩前進、って感じだと勝手に自分で思っています。すごくお金が溜まったら、この賃貸サイト閲覧癖がいつか役に立つ日も来るのだろうか・・・。

 

今日はこのへんで。

 

 

敷き毛布はいつだって味方の話

今日は敷き毛布の話。

 

この世に敷き毛布があることを知ったのは、高校生の時だった。

知り合いの家に敷き毛布があって、その感触に驚愕。

それまでは、羽毛布団のうえにかけて、温もりを逃さないためだけの

ものだと思っていた。

 

それを、体の下に敷くなんて。

 

柔らかい。これはもう、愉悦だった。愉しみのための道具。

 

結局実家にいるうちは導入しなかったが、一人暮らしをするようになってからは

すぐに敷き毛布を使うようになった。

 

それ以来、年中使っている。夏でも使っているので、暑くないのかと

言われそうだが、ぜんぜんそんなことない。というか、それよりも

感触による快の方が勝るのだろう、敷き毛布がなければもっとこうだ、という

考えすら浮かばない始末である。もはや、無いと眠れないと思う。

 

スペアを含めてきちんと敷き毛布があることは、自分の人生においてマストだ。

 

(ちなみに、「無いと眠れないと思う」というのも、結局のところ、敷き毛布

無しに眠れるかどうかを試すために一晩使うくらいなら、知らないままで

構わない、という意思表示である。)

 

昔読んだ江國香織の小説「ホテル・カクタス」で、数字の2(という登場人物)が

こよなく愛するのがお気に入りの毛布だった。このことは、すごく共感できる。

 

この数字の2(という登場人物)は、几帳面かつ神経質で、繊細な性質なのだが、

そんな数字の2にとっては、いつだって変わることなく自分を受け入れてくれる

永遠不変のものが必要なのだろう。家族や友人、恋人も、いつだって心地よく

自分を受け入れてくれるわけでは無い。そういう時に、せめて寝る時に自分を

包むものくらいは、いつも変わらずに優しく体を迎え入れてほしいのだ。

 

なんだか寂しい話に聞こえるかもしれないけれど、これもまた、ひとつの

ちょっとした本音だと思う。

 

そんな数字の2も、友人であるきゅうりや帽子と交わる中で心を通わせていくのが、

その話の素敵なところである。

 

今日はこんなとこで。

 

 

 

 

 

本を読もうと思っておりはべり

とりあえず、書きます。

 

最近本を読んでない。

一応文学部出身だが、学生時代も全然読まなかった。

卒業間近になって、あわてて専攻する分野をひととおり

読んだが、その一切はすぐに忘れた。

 

社会に出て、はじめて本の面白さがわかったように思う。

葛藤があってはじめて、文学は滋味が増す、となんとなく思った。

 

最近Kindleで実用書を読むこともままあったが、

古本屋でちょこちょこと物色するのも楽しいもので、

タイトル買いしたりする。

 

スィフトの「ガリバー旅行記」、カフカの「カフカ短編集」。

このへんが家に転がっているので、また茫洋と読むのだろう。

 

今日はここまで。